2010年7月10日に劇作家、演出家のつかこうへいさんが亡くなられました。
私は1978年から亡くなられるまでつかさんの演劇の音響効果を担当させて頂きましたが、2010年の1月8日に稽古場でお会いしたのが最後となってしまいました。数年前まではお会いする度に「お前は何でそんなに元気なんだ!」と良く言っておられました。
私はつかさんが亡くなられたことによるショックを受けましたが悲しさはそれ程ではありませんでした。それは悲しむということ以上につかさんの演劇や表現、人としての道などのつかこうへい哲学を後世に伝えていくという使命感の方が強くなりました。
● 人の存在価値とは?
● 人を愛することとは?
● 意志を伝える表現とは?
● 演技をするということとは?
● 音を出すということとは?
つかさんの芝居を通じて私は約30年間、これらの命題をずっと考え続けなければならない状況に置かれました。今考えると、つかさんは意図してこのような状況に私を追い込んだのだと思います。
これら哲学的な命題に対する思考力を持ち続けることの意義や実際が、全ての人間にとって必要不可欠な要素であり、特に私が仕事としている音響効果デザイン、オペレーションには、その仕事を遂行する以前に身につけておかなければならない重要な要素である、という一つの答えを私に導き出させました。
拡声をするという行為とエンジニアの関係、ミックスをする行為とアーティストの関係、音を出す行為とそれを聴く人の関係など考えなければならない基本概念を否が応でも考えざるを得ないようになってしまいました。
つかこうへいさんは私にとって、人生の師であり永遠に手が届かない天才芸術家でした。私がつかさんとお会いしていなければ、今の私は存在しなかったと思います。
初めて芝居に携わってからの約2年間は灰皿、ドーナツレコードを投げつけられ、「ばかやろう!」「きさま!」などと叱られっぱなしでした。最初は何が間違っているのか、何を求められているのか全く分かりませんでした。家に帰って今日怒られたことを考え、つかさんが求めているのは何だろうと繰り返し考えて、稽古場に行っても灰皿が飛んできました。その結果、それまで生きてきた間に身についた私の訳の分からぬ価値観、考え方など全て壊されてしまいました。
つかさんは生まれてから30年間身につけた私の生っちょろい価値観を徹底的に壊し、新たな価値観創造をしなければならない状況に私を追い込みました。人からは「なぜ辞めなかったのか」と良く言われますが、当時を振り返ってみると、毎日毎日つかさんの口から発せられる言葉にワクワク、ドキドキし、何が出来上がっていくのか?という楽しさの方が怒られるより勝っていたのだと思います。
2年後ぐらい経って「いつも心に太陽を」の稽古場で、灰皿飛んできても元々という気持ちで、ザ・ピーナツの「情熱の花」を流したところ、オープニングの芝居が全く変わってしまいました。おそらくつかさんが表現したかったシーンに合致したのでしょう。この時、淡い光の道筋がぼんやりと見えたような気がしました。それ以降つかさんの芝居の音楽は徐々に私が持って行くようになりました。また灰皿が飛んでくる回数も減り始めました。
つか演劇の特徴は、舞台で役者が言葉を発する、肉体を動かすといった行為が、観客に向かって役者という「人」と「つか哲学」を伝える原点芝居だと思っています。ドラマ性よりもこちらに比重を置いた芝居だったからこそ、演劇評論家からは賛否両論が多かったのだと思います。
また良く出てくる台詞に「あなたの為に全世界を相手に戦います」
という台詞は、人が人を本当に愛することの意味、意志、行動の原点を表現しています。つかさんの戯曲にはこのような言葉が多数ありますが、それらには私たちがその言葉の真の意味を考えようと行動する力の源となるような大きなメッセージが含まれています。
洪水のように迫る台詞と音楽、矢のように飛んでくるエネルギー、これだけで観客の人間性までも変えてしまう演劇、これがつか演劇の特徴であったと思います。 故に舞台には観客の目線がぶれる舞台美術、衣装が存在しなかったのです。
音響効果は私が担当してから2年ぐらいは「音が大きい」「うるさい」といったアンケートが100%ありました。初めての舞台の劇評には「極悪非道の音響 山本能久」と書かれました。その間いろいろ試行錯誤しましたが一向に減りませんでした。ある時、紀伊國屋ホールでの本番中にフロントのオペレーションブースにつかさんがいらして「お前が音を出した時に客席の空気が前後に動くかどうか良く見てみろ」と言われ、音を出しながら客席を見るとわずかながら空気の前後移動が分かりました。それからどのようなタイミングでどれぐらいの音量で音を出せば最も大きく動くか、毎日挑戦してみました。1週間ほどで答えが見つかりました。役者の台詞のリズム、テンションと自分の意識が一致したとき最大限に空気が移動しました。
不思議なことに前よりも大きな音量が出ている筈なのに、それ以降は「音が大きい」「うるさい」といったアンケートが減り始めたのです。その後の2〜3公演の間に、そういったアンケート数が4〜5枚までに激減したのです。今思うとタイミング、テンションの違いなどずれずれだったので、観客も気持ち悪かったのだと思います。
たった一言の言葉で人の行動が変わる、人生が変わる、私は直接自分に起こった出来事に驚き、つかさんを尊敬し、それで30年も続いたのだと思います。
1978年から1995年、つかさんを先頭にキャスト、スタッフ皆爆走し、私などはそれが新たな価値を創造しているなどと夢にも思わず、ただただついていくのが精一杯でした。途中ちょっとでも気を抜くと落とされ、意識集中していると持ち上げられ、皆つかさんに振り回され、それはそれは大変な(私にとっては本当に楽しかった)17年間でした。
このような経験をさせて頂いた自分は本当に幸せだと思います。
つかこうへいさん、本当に有り難うございました。
<2010年Vol.28 日本舞台音響家協会機関誌の原稿から再校正>