<3、舞台音響の本質>

 舞台で演じられるものは基本的に「生音」です。そこに電気音響を用いようがいまいが「生音」だけで、舞台で演じられる(演奏される)もの100%は完成していなければならないのです。それをそのまま舞台に上げて美術、照明、音響等によって200%以上の舞台に仕上げるのがのスタッフワークです。すなわちスタッフワークはあくまでも「効果」であり、メインではないのです。

 「効果」とは何でしょう?

 生音の持つ良さを壊すことなく、生音をより効果的に観客に聞かせる

 といえるでしょう。

 スクランブルエッグを作る時にフライパンにどれだけ熱して、どれだけの塩を入れれば一番うまいかと同じことです。熱する時間を誤ると卵の持つ本来のまみはなくなります。さらに塩の量を間違えると・・想像できますネ。

 音響は卵(メイン)ではないのです。
 ガス台の火はパワーアンプ
 フライパンはスピーカー
 火加減、塩の量等を決めるのは音響家のセンス

と考えてみたらどうでしょう?

 調理する人と全く同じではないですか?

 スクランブルエッグを食べた人は卵をどのくらいスクランブルしたとか、塩がどれくらいの量入っているかとかは全く気にしないで「うまい」と評価します。また逆に味が変なときだけ「塩辛いな」「固まりすぎだよ」と文句を言います。

 観客にとって良い舞台は「音響」の存在を全く感じていません。ましてやスピーカーやコンソールがどこそこのものだとかは関係がないのです。

 また良いアーティストの生音はどのような状態で聞いても「良い物は良い」の です。

 例えばカラヤン+ベルリンフィルを数百万円のオーディオ機器で再生しても、1.980円のトランジスタラジオで再生しても、カラヤン+ベルリンフィルなのです。また、Schoeps、AKG、B&K等の高級マイクで収音しても、3,000円のカラオケマイクで収音してもカラヤン+ベルリンフィルなのです。要は生音で、きっちりと伝わるものを「生き音」といいます。

 「生き音」を収音して他の音響システムで再生した場合、ミキサーの能力によって「生き音」にも「死に音」にもなることがあります。

 また素材が「死に音」はどんなに優れた能力を持ったミキサーがミックスしても「死に音」です。決して「生き音」にはなりません。

 にぎり寿司を例にとってもう少し解りやすくしてみましょう。

1、生きのいい新鮮なネタと最上のシャリで寿司をにぎった場合。

同じ材料を使っても寿司職人によって味が異なります。これをあえて科学的に分析すれば、ネタの包丁の入れ方、ネタを手に乗せている時間、手の温度、わさびの量などの違いが味の違いになると考えられます。

A「生きた」食材を使って、「生きた」寿司に仕上げるのが本物の寿司職人です。
 食材だけを食べてうまいものから食材の持つ良さを引き出して加工し、味覚、視覚両面からうまさが増した寿司をにぎるのが本物の寿司職人です。

B「生きた」食材を使って、「死んだ」寿司に仕上げるのは偽物の寿司職人です。
 食材だけを食べてうまいものから食材の持つ良さを理解せず加工し、味覚、視覚両面からうまさが半減した寿司をにぎるのが偽物の寿司職人です。

2、仕入れて3日経ったネタと古々米のシャリで寿司をにぎった場合。

まず「まずい」「もう2度と来ない」となるでしょう。実際にはこんな寿司屋はないでしょうが・・・。

「死んだ」食材を使って「死んだ」寿司をにぎって、それを平気で客に出す店は倒産寸前の寿司屋です。

 客はどの寿司屋に行くでしょうか?

 本物の寿司職人は
●うまいものを客に食わせる
●ゆえにネタ選びにはこだわる
●他店との差別化のための盛りつけの芸術性、味の追求を怠らない結果、客足が増す

 を基本姿勢としているように思われるのと同時に職人としての哲学がよみとれます。

 これを音響にあてはめてみたらどうでしょう。
 「食材」を「アーティスト」に置き換えてみてください。1-Aを置き換えると

生音だけでもすばらしい「アーティスト」から「アーティスト」の持つ良さを引き出して加工し、聴覚、視覚両面から芸術的な舞台または録音をするのが本物の音響技術者です。

  となります。

 ゆえに
「音響技術者は基本的に芸術的感性、芸術的才能が必要不可欠である」

 といえます。

芸術的感性がないと「アーティスト」の持つ良さが理解できない。さらに芸術的才能がないと芸術的な舞台または録音をすることができない。

 ということが簡単に理解できるでしょう。