<つかこうへい氏との出会い秘話>
私がつかこうへい氏と初めて仕事をしたのは1978年のある芝居でした。
その時は音楽監督の方の関係で仕事をすることになりました。当然つかこうへい氏とは面識もなく、またそれまでコンサートのミックスしかやっておらず、芝居の「し」もわからないまま現場に入ったものです。稽古場へ行っても台本にないことを稽古していたり、何がなんだかさっぱり理解できませんでした。それでも何とか仕込み、GPまできました。
400人のキャパシティーにJBL4560+2440を2対向、BGW1000のアンプ3台で再生しました。このキャパシティーではこれぐらいの音量が妥当という音量でGPに入ったわけですが、先の音楽監督が、「もっとパワーを上げろ、音のカーテンを作れ!」と私に指示しました。最初は指示に従っていたのですが、だんだん絶えきれなくなり、ミックスをしている私の耳が痛くなり、じんじんしてきました。そこで「これ以上は機材も危ないし(実際2440は劇場に入って振動板を2枚交換しました)、客の鼓膜が飛ぶからこれ以上できない」と答えたら
音楽監督「俺の言うことが聞けないのか!」
私「聞けない!!」
の言い争いとなり、さらに胸ぐらをつかみ合う喧嘩となりました。
音楽監督「お前は首だ!!!」の一言でプッツン!
私「バラせ!」
とアシスタントに叫んで、パワーアンプの電源が入っているのにもかかわらず、ミキサーの電源をひっこ抜きました。半端でない程の大音量で「バツン」。
アシスタントはおろおろして「本当にバラしますか?」
「バラせ!帰るぞ!」
しかしアシスタントはバラす勇気がなかったみたいです。
GPは完全に中断しました。
当時私はPA会社の社員であったので、社長が2時間後現場にやってきて
「何とかしてくれ・・・」
の言葉で気持ちを取り直し、いきなりミキサーの電源を差し込み、これまたすざましい音の「バツン」でGP再開。
本当に頭が痛くなるほどの音量のGPでした。
初日が開き少し落ち着いたところに、某週刊誌の劇評に「・・・・極悪非道の音響○○○○・・」(○○○○は私の実名)と書かれました。私はこれをコピーし劇場入りするキャスト、スタッフに楽屋入り口で配りました。
これしか自分が出している音に抗議する手段はありませんでした。
実際本番の毎日は他のスタッフとも話をすることもなく、非常に孤独な2週間でした。
千秋楽を迎え自分たちだけさっさとバラし打ち上げにも出ず、誰にも挨拶せず「2度と芝居なんかやるものか」と心に決めて帰社しました。
考えてみると劇場に入ってつかこうへい氏とは1度も会話をしなかったような気がします。
自分にとっての嫌な気分がようやく薄れはじめた1979年の正月3日。1本の電話が鳴りました。
「つかですが」
一瞬、私は昨年のいやなことを思い出してしまいました。
「俺の芝居の音効をやってくれないか」
私は自分の耳が壊れたと思いました。
「いや、あのとき以来芝居は2度とやらないと心に決めましたからできません」
「まあそう言わずに一度会ってくれないか」
しょうがないので断るつもりで、しぶしぶ待ち合わせ場所に行きました。
「お前に俺の芝居の音効をやって欲しい」
「芝居は2度とやらないと心に決めましたから」
「まあそんなに頑なにならずにやってみろ」
かなり強い意志で断ったのですが、つか氏の人を取り込む独特の話術に押し切られてしまい、結局やることになってしまいました。
初めての稽古場が「いつも心に太陽を」でした。音を出すたびにつか氏から灰皿が飛んできました。「こんなに怒られ続けるものを何で引き受けたんだろう」と稽古場の帰り道いつも思っていました。気が付いたら20年。
20年もの間、氏の芝居の音効に携わるとは自分でも全く想像できませんでした。
そして20年たった今でも、あの事件の中でつか氏は私のどの部分をかってくれたのかわからないのです。
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胸ぐらをつかみ合う喧嘩?
「バラせ!」?
大音量で「バツン」?
極悪非道の音響○○○○?
劇評のコピーの配布?
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私の人生のなかで未だ解決しない謎です。